先日ふと考えさせられた、ミャンマーで起こることは、実は予測不可能ではないのではないか?と言う点
そんな風に思った後、日本で過ごしていると感じるのだけれど、
日本の市街地の道を歩いていると人は総じて、交差点に差し掛かると信号を確認しながら、青の時だけ横断歩道もしくはその付近で道路を渡る。
加えて言うと、赤信号の前で停止した後も左右からくる車の往来を注視する人はほぼおらず、せいぜい青に変わった直後に確認して渡る程度で、それまでの間は俯いてスマホをいじっていたりする。
対してミャンマーでは、交差点に差し掛かって信号が青なら少し確認して当然渡るが、赤でも周囲の往来を確認してスキあらば渡る。また、信号は青でも突っ込んでくる何かがいる可能性もそこそこ高いから、常に周囲の気配に注意を怠らずに渡り、赤で渡るならなおさらリスクは増すのだからさらに注意しながら渡る。
加えて言うと、自動車か歩行者かに関わらず、現地に来たばかりの外国人の目からは無謀としか思えない角度とタイミングで交差点に進入することは日常的な光景だから、自動車も歩行者も通行中の緊張感は日本の比ではない。
日本とミャンマーの習慣の違いを感じる一コマの話だが、これが実は全てに通じる現象である。日本のことわざでも「一事が万事」なんて言う言葉があるが、まさにその通りである。
従業員一人雇っても、いつも出勤してくるとは限らないし、無断欠勤だなんだとトラブルが起こる頻度は日本国内の比ではない。ましてや雇用契約書なんて大した制約ではないタダの紙切れ同然で、法令が順守されるとは限らない地で契約書面はどちらかと言うとトラブルの際の言い訳の道具でしかなく、自らリスクを取る立場にある経営者にとっては実質的にはほぼ無価値である。
要は、日本に倣ったような理屈や手続きの多くは、中間管理職やコンサルの保身のために存在すると考える方が本質的で、これは日常の買い物から行政手続きまで全てに通ずる傾向である。
落ち着いて考えてみると分かるが、そんなことはとっくに理解できていたのに予測不可能性が高いなどと考え、くだらない手順を追いかけて体裁を整えることに時間を割き過ぎることもあった自分の思考を思い返すとガッカリする。
実は概ね予測できていたにも関わらずなんと馬鹿げた思考だったのかと気づくと本当に恥ずかしい。
そう、交差点を渡る時と同様に常に周囲の気配を察し、最悪の事態が高い頻度で起こることを折り込んだ行動をとれば良かったと言うだけのことだった。
日本ですら交差点で周囲の気配に気を配らず漫然と立っていたら、大事故に会うリスクはゼロではないのに、リスクの高い場所に自ら出て行って、そのリスクの折り込み方が甘かっただけにも関わらず、なんと愚かな思考で行動していたのだろうか。
コロナ禍のおかげで不意に長い期間を日本で過ごす中、少しゆっくり考えることができたのは不幸中の幸いだ。